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無題ドキュメント

2021.4.1

カルチャー

美はあちこちに宿る

小説家 三浦しをんさんのエッセイを毎月1回お届けします。

 

 友人と伊豆に泊まりにいった。民宿と旅館の中間ぐらいの、家族経営の小さなお宿だ。目のまえにはこぢんまりした漁港と悠然たる太平洋というロケーション。そのため、お宿の売りは新鮮なお刺身だそうで、「楽しみだねえ」と友人と私はうきうきした。
 しかし、お宿のご亭主が少々変わったひとだった。むちゃくちゃせっかちで、基本的にひとの話を聞いていない。チェックインのときからして、館内の説明などはなにもなく、
「息子がやった伊勢エビがあるんだけど、オプションで夕飯につけない?」
 といきなり勧めてきた。息子がやった、とは……? 仕留めたという意味なのだろうか。そこんところを詳しく聞きたかったのだが、立て板に水のごとく、
「一尾二千五百円! 二人で食べるとちょうどいいよ」
 とぐいぐい推され、友人も私もエビが大好物なので、
「わかりました。息子さんがやった伊勢エビをオプションでお願いします」
 とうなずくほかなかった。
 ちなみに、町営の露天風呂へ行く際も、ご亭主は雪駄を用意してくれており、
「だめだだめだ! せっかくなら温泉気分を味わったほうがいいから、雪駄を履いていきなさい!」
 と、友人は靴下を剝ぎ取られていた。返す刀でご亭主は私の靴下も剝ぎ取ろうとしたのだが、
「この靴下は足袋状のものなので大丈夫です!」
 と、必死に足の指をチョキチョキさせてみせて、なんとか納得してもらえた。親切かつもてなしの心にあふれたご亭主だということは十二分に伝わってきたが、とにかくもうちょっと落ち着いてひとの話を聞いてほしい、と友人と私は笑いを嚙み殺しつつ思った。
 海に面した豪快な露天風呂を満喫し、お宿に戻った友人と私は、うつくしい夕焼けを堪能しながら、部屋の窓辺に腰かけておしゃべりしていた。館内には夕飯のいいにおいが漂いだしている。すると、眼下のエントランスからご亭主が道に出てきたのが見えた。
 夕飯の準備で忙しい時間帯だろうに、いったいどうした……? と注視していたところ、ご亭主は海と夕焼けをうっとり眺めたのち、おもむろにガードレールに両手をつき、猛然と腕立て伏せをはじめた。暇なのか!? 友人と私が窓辺で爆笑したのは言うまでもない。腕立て伏せを終えると、ご亭主はまたうっとりと海と夕焼けを眺め、何食わぬ顔で館内に戻っていった。あとで聞いたところ、お料理を担当しているのは奥さんなのだそうだ。やはり暇だったか……。
 夕飯にはドーンと舟盛りが部屋に運ばれてきて、地のものの刺身はどれもとろけるようにおいしく、ほかのお料理も手がこんでいてサイコーだった。友人と私は夢中で食べ、地酒を飲んだ。友人は途中でトイレに行ったのだが、入れ替わるように、なんの前触れもなく部屋のドアがドカーンと開いた。ご亭主が伊勢エビのおつくりの載った皿をうやうやしく両手で捧げ、室内に乱入してきたのだ。
 私はびっくりして、座ったままの姿勢で座布団から二十センチぐらい飛びあがった。ご亭主は私の驚きには頓着せず、室内を見まわして、
「あれ? もう一人の子は?」
 と言った。
「あの、いまトイレに……」
「ええ!? もしかしてこんな夜に、一人で海を見にいっちゃったの!?」
 ご亭主はやっぱりひとの話を聞かず、皿を捧げたまま心配そうに室内をうろうろしはじめた。息子がやった伊勢エビは新鮮なので、おつくりになってもまだ、うねうねとヒゲを動かしている。うろうろするご亭主、うねうねする伊勢エビ。あまりにシュールすぎる光景に「あわわ」と呼吸困難になり、
「いえあの、トイレ、トイレなんで、どうかご亭主、落ち着いて……」
 と懸命に伝えようとするも、笑いの発作が起きてひーひー身もだえるしかなかった。
 そこへトイレから戻った友人は、うろうろするご亭主、うねうねする伊勢エビ、ひーひーする私を見て、状況を察したのだろう。神妙な顔つきで座布団に座り、
「どうもタイミングが悪かったようで、すみません。おいしそうな伊勢エビですね!」
 と場を取りなした。ご亭主はホッとしたように、
「あんた、一人で海に行っちゃったのかと思ったよー。どこにいたの(だからトイレだってば)。さあ、食べて食べて!」
 と伊勢エビの皿を座卓に置いた。「三千円の伊勢エビにしといたから!」
 ……ん? それはサービスで、大きめの伊勢エビにしてくれたということ? それとも、いつのまにか三千円サイズの伊勢エビに変更されたということ? しかし、質問しても答えは返ってこないと友人も私ももう学んでいたので、「ありがとうございます」と言うにとどめた。伊勢エビはものすごくおいしかった。
 その日はちょうど満月だったので、夕飯を終えてからは部屋を暗くして、窓辺で酒を飲んだ。雲が切れると月の光で海面が白く輝く。照明がいらないほど明るい。なんてきれいなんだろう。毎日、ここで暮らしているご亭主が、それでも海と夕焼けをうっとり眺めずにはいられない気持ちがわかる気がした。
 チェックアウトのとき、明細には「伊勢エビ 二千五百円」と記されていた。エントランスから出て笑顔で見送ってくれるご亭主に、「また来ます」と笑顔で手を振り返した。




三浦しをん

小説家。1976年、東京都出身。 2000 年『格闘する者に○』でデビュー。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、 2015 年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞、2018年『ののはな通信』で島清恋愛文学賞及び河合隼雄物語賞を受賞。2019年には植物学専攻の大学院生を描いた『愛なき世界』で、作家としては初めてとなる日本植物学会賞特別賞を受賞した。『風が強く吹いている』『きみはポラリス』『のっけから失礼します』『マナーはいらない 小説の書きかた講座』など著作多数。






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