当サイトを正常に閲覧いただくにはJavaScriptを有効にする必要があります。
ハーバー初めての方限定

のおすすめ商品!

詳細はこちら

無添加主義® ハーバーの公式オンラインショップ | 今なら、全国どこでも送料無料!

今なら、全国どこでも送料無料!

HABA note- 心地よい暮らし -

2023.7.20 カルチャー 

美はあちこちに宿る

第29回 幻想の山

美はあちこちに宿る

小説家 三浦しをんさんのエッセイを毎月1回お届けします。

 

 仕事の取材も兼ねて、とある山に登りたいなと数年まえから思っている。もちろん、剱岳みたいな難易度の高い山ではなく、初心者でも大丈夫とされる山なのだが、こちとら登山の常識を軽々と凌駕する超弩級の初心者。これまでの登山経験、ほぼ高尾山のみなのだ。ドヤ!
 ドヤってる場合じゃない。たとえ行楽先として人気の高尾山といえど、山は山だ。登山をナメちゃいけない。それに私が今度登ろうとしているのは、高尾山よりはずっと標高が高いし、レジャーとして気軽に楽しむ感じでもない山である。いっそう気を引き締め、心して準備せにゃならん。
 まずは、目当ての山に詳しいかたを探し、ガイドしていただけるようお願いした。
「当方、いまガイドさんが予想していらっしゃるより百万倍ぐらい体力がなく、足首が硬く、動きが鈍重で、運動神経がありません」
 と正直に申告したところ、
「わ、わかりました。一番楽なコースを選定し、事前に天候もよく注視しておくようにします」
 と、たじろぎつつも引き受けてくださった。
 よかった。しかしまだまだ油断はならない。なにしろ私は常識を凌駕する身。ふだんは一日あたりの歩数、二百三十七歩ということだってあるぐらいなのだ。万歩計が壊れてるんじゃないかと驚いたのだが、狭い自宅で、仕事部屋の椅子とトイレの往復しかしてないのだから、まあ妥当な数値だった。
 そこでつぎに、その山に登ったことがあるひとへの聞きこみを開始した。経験者の証言から難易度を把握し、イメージトレーニングをするのは大切だからだ。ところが、三名の証言を集めるも、感想がてんでんばらばらで困惑した。
「小学校の遠足で登りましたけど、友だちとおしゃべりしてたらあっというまで、楽しいもんでしたよ」
「山頂付近には鎖場もあって、かなりきつかったですね……」
「三十年以上まえだったから、すべての記憶が霧のなかの風景みたいにおぼろだなあ。ぼく、ほんとにあの山に登ったのかなあ」
 三名が登ったのは、本当に同じ山なのだろうか。コースが異なったのかな? それにしたって、最後の一名に至っては山の実在自体が疑われるレベルだ。私が登ろうとしているのは、もしや幻の山なのではあるまいな。
 とにかく、つかみどころのない山だということはよくわかった。これはますます、気をゆるめることはできん。私は真剣に、なんかモヤモヤ~ッとした山を思い浮かべてイメージトレーニングに励んだ。
 そうこうするうちにコロナ禍に突入してしまい、登山計画は一時中断となった。同時に、「ええい、こんなモヤモヤ~ッとした山を脳内でいくら登ったとて、埒が明かん!」と、私はようやく現実を直視した。この猶予期間をいまこそ有効活用し、足腰を鍛えておくべきではないか。
 というわけで、スポーツ用品店に行った。実は登山靴すら所持しておらず、「スニーカーで登って大丈夫なものなのかな?」と思っていたのだ(登山をナメちゃいけないと言っておきながら……!)。店員さんに相談したところ、
「スニーカーじゃ危ないですよ。初心者ならなおさら、もっとすべりにくくて、捻挫を防いでくれるような靴を選ばないと」
 と親身にいろいろ試着させてくれた。私の足首があまりにも硬いため、ハイカットの登山靴で固定しすぎると、油が切れかかったロボットよりもぎこちない歩きかたになってしまうことが判明する。店員さんは頭を悩ませたすえ、トレッキングシューズと登山靴の中間ぐらいのものを勧めてきた。アドバイスに従い、その靴を購入。紐の締めかたについても教えてもらう。
 ようし、手ごたえを感じるぞ。山を登れそうな気持ちになってきた。勢いに乗って、通気性のいい長袖シャツと靴下、伸縮性に富んだズボンも買った。実のところ、二十年選手で着古した、たるんたるんのジャージの上下でいいかなーと思っていたのだが(登山をナメ以下略)、やはり形から入るのも大切だろう。それを聞いた店員さんは、「ジャージ!? 正気ですか。遭難したらどうするつもりだったんです」と天を仰いでいた。
 靴を手に入れた私は、締め切りが差し迫っていないときには、一日に八千歩強は近所を散歩するようになった。少ないと思われるかもしれないが、二百三十七歩だったことを考えれば、常識を凌駕する飛躍ぶりだ。いいぞ、自分!(ポジティブシンキング)
 季節の移ろいとともに空気のにおいの変化が感じられて、歩くのはわりと楽しい。すれちがう犬がたわむれかかってきたりして、かわいさに心癒やされもする。そしてまだ見ぬ山は、あいかわらずモヤモヤ~ッとしたまま、我が脳内でどんどん美を増していく。脳内山は現在紅葉の見ごろで、私の頭上は虹色の葉っぱで覆われ、孔雀みたいな鳥のつがいが飛んでいるのが葉陰から垣間見えた。
 しかし実際に登山をしたら、私の体力的に、自然の美を堪能してる場合じゃないんだろうなという予感が薄々する。たぶん山頂付近、森林限界を超えてて、落葉広葉樹は生えていないと思うし。がんばれ、自分!  

美はあちこちに宿る

三浦しをん
小説家。1976年、東京都出身。2000年『格闘する者に○』でデビュー。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、2015年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞、2018年『ののはな通信』で島清恋愛文学賞及び河合隼雄物語賞を受賞。『風が強く吹いている』『愛なき世界』『マナーはいらない 小説の書きかた講座』など著作多数。本誌連載も収録したエッセイ集『好きになってしまいました。』(大和書房)発売中。最新刊は小説『墨のゆらめき』(新潮社)。