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HABA note- 心地よい暮らし -

2023.8.21 カルチャー 

美はあちこちに宿る

第30回 雨の日のバラと犬

美はあちこちに宿る

小説家 三浦しをんさんのエッセイを毎月1回お届けします。

 

 友人のお父さんが、ご自宅の庭でバラを育てているので、見物に行くのを毎年楽しみにしている。あくまでも趣味として栽培しておられるのだが、とてもそうは思えないほど、庭じゅうに花が咲き誇る。
 私は五月にお邪魔したことしかないが、友人のお父さん曰く、「秋のバラがまたきれいですよ。春よりはちょっと小ぶりな花になる気がするけど、そのぶんびっしり咲くし、香りも豊かです」とのことで、こりゃあ秋にもうかがわなければと、虎視眈々と機会を狙っているところだ。
 さて、その友人の家には、毛がもふもふした中型犬がいる。家族の一員としてリビングですっかりくつろいでいるが、本来は牧羊犬として活躍する犬種なのだそうだ。バラ見物ツアーを組み、数名で友人の家に遊びにいくと、大喜びした犬が玄関先まですっ飛んできて出迎えてくれる。「だれだ、きみたち! よく来た、よく来た! しかしだれなんだ、きみたち!」といった感じで、我々の足もとをぐるぐるまわる。靴を脱げないので、ちょっと落ち着いてほしいと思いつつも、「こんなに私の訪れを待ちわびてくれる存在、ほかにいるだろうか」と感激する。だが友人によると、だれが来てもこの反応なのだそうだ。なんだか裏切られた気持ちもするが、とにかくかわいいやつなのである。
 一同、リビングに陣取り、窓から庭のバラを眺めつつおしゃべりする。十分ほどすると、犬も喜びと興奮が少し収まるのか、改めて客人のにおいを一人一人嗅いでまわり、挨拶してくれる。その際、「……あっ。もしかしてきみ、以前もうちに来たよね?」という顔をするのが、またかわいい。「思い出してくれたかー」と、もふもふの毛の向こうにあるむちむちの体を揉むと、「まあね」と尻尾を振るのだった。
 今年の五月にお邪魔した日は、あいにくの雨模様だった。しかし、雨に濡れたバラもひときわうつくしい。灰色の空を背景に、白くうっすらとけぶったような空気のなか、オレンジや薄ピンクや紫っぽいバラが、花びらに載せた露をきらめかせている。夢のような風景に感嘆のため息をこぼしつつ、私たちはリビングの窓辺に座っていた。
「本当に素敵……(うっとり)」
「でも、この雨だと(犬の)お散歩に行けないのが残念だね」
 と言った瞬間、優美かつ静かな雰囲気が打ち砕かれた。挨拶を終えて、ソファででれーんと寝そべっていた犬が、「お散歩」という言葉に激烈な反応を示し、転げ落ちるように床に下りると、
「散歩!? いま散歩って言ったよね! 行こう、さあ行こう!」
 と部屋じゅうを跳ねまわりはじめたからだ。
「おお、 『散歩』って単語がちゃんとわかっている」
「しかし、 『行けない』までは理解できていない様子」
「どうすんの、こんなぬか喜びさせちゃって。かわいそうなことしたよ」
 我々は急いで犬に謝り、なだめようとしたのだが、犬はつぶらな目で、「あれ? 散歩じゃないの? なんで?」と見上げてくる。ぐぬぅ、そんな純粋な目で見ないでくれ。罪悪感に押しつぶされそうだ。
 犬の気を紛らわせるべく、ちょっと時間は早いが、友人のお母さんが餌皿にドッグフードを盛った。その音を聞きつけて犬が皿に突進していったので、なんとかことなきを得る。
「今後、絶対に『散歩』って口にしないようにしよう」
 声をひそめて作戦会議した我々は、一瞬で餌を食べ終え、満足そうに戻ってきた犬に、
「……おにゃんぽ」
 と言ってみた。
 犬はなにも反応を見せなかった。「おにゃんぽ行こう」「おにゃんぽって楽しいね」などと言ってみても同様だ。
「おおー! 微細な音のちがいを、ちゃんと聞き分けているようだ」
「賢いねえ」
 もふもふむちむち撫でてあげると、「まあ褒められるのも当然だ。こちとら、かわいくてご飯をいっぱい食べる、いい子だもんな」といった顔で尻尾を振る。散歩が不発に終わったことは、まったく根に持っていないらしい(餌を食べてる一瞬で忘れた……?)。こんなに揺るぎなく、人間からの愛を信じて疑わない生き物がいるとは、と胸がキューッとなり、思わずガバチョと抱きしめたら、「それはやめてくれ」といやがられた。すまんすまん。
 「散歩」と「ご飯」以外に、この犬が激烈な反応を見せるのは、居合わせたひとがトイレに立つときだ。牧羊犬としての習性があるためか、「おい、どこへ行く! 勝手に群れを離れちゃいかん!」と、立ちあがったひとの足もとにすぐさま駆け寄り、歩くのを阻止しようとする。「トイレだから。すぐ戻ってくるから」と言っても納得しかねるようで、そのひとが消えたトイレ方向をずーっと凝視し、リビングに戻ってきてからも、「どこへ行ってた! 群れを離れるのは危険な行為だぞ!」と、こちらが腰を落ち着けるのを確認するまで、そばにくっついている。かわいくて賢いうえに、けなげだ。
 しかしそれ以外はたいてい、犬はおとなしく寝そべり、我々と一緒に窓から庭を見ている。黒くつやつやした犬の目に、雨に濡れたバラが映っている。  

美はあちこちに宿る

三浦しをん
小説家。1976年、東京都出身。2000年『格闘する者に○』でデビュー。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、2015年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞、2018年『ののはな通信』で島清恋愛文学賞及び河合隼雄物語賞を受賞。『風が強く吹いている』『愛なき世界』『マナーはいらない 小説の書きかた講座』など著作多数。本誌連載も収録したエッセイ集『好きになってしまいました。』(大和書房)発売中。最新刊は小説『墨のゆらめき』(新潮社)。