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2023.10.20 カルチャー 

美はあちこちに宿る

第32回 人類の知恵

美はあちこちに宿る

小説家 三浦しをんさんのエッセイを毎月1回お届けします。

 

 部屋の柱や壁に、ごーりごーりと背中をこすりつけている。
 前回、北海道に行って、「ベア・マウンテン」という施設でヒグマを見たと書いた。縄張りを示すためなのか、クマは立ちあがって木の幹に背中をこすりつける習性があるらしく、「ベア・マウンテン」でも山腹の木の皮が剥けているのを目撃した。だから私もヒグマを見習い、「ここは自分ちだぞ」ということを誇示するため、柱や壁に背中をこすりつけているのだ。
 って、そんなわけはない。一人暮らしで室内にはほかにだれもいないのに、縄張りの誇示もなにもあったもんじゃない。ただ単に、私は背中がかゆいのだ。しかし現在、激烈な五十肩に見舞われており、両腕とも痛くて痛くて微塵も上がらないため、しかたなく柱や壁を活用して搔いている次第だ。野山を単独で闊歩するヒグマより、ずっとさびしい暮らしな感じがするなあ。ごーりごーり。
 もちろん私も当初は、人類の知恵をヒグマに見せつけてやるべく(?)、三十センチ定規を駆使して自身の背中を搔こうと試みた。でも、だめだった。腕にちょっとでも角度がつくと、「ぎゃっ!」と短く叫んでゴロゴロ転がりながら悶絶するほど痛い。
 なるほど、家族やパートナーと暮らす人類がそれなりに多いのは、五十肩のときに遠慮なく「背中搔いて」ってお願いするためなんだな(「そんなお願いをするためだけに一緒に暮らしてるんじゃない」というお声が聞こえてくるような気もするが)。人類の知恵をまたひとつ学んだが、いまから同居人を探すのは手間なので、今日も柱や壁に背中をこすりつけているのであった。ごーりごーり。
 そんなある日、打ち合わせを終えて自宅の最寄り駅に降り立った私は、ついでにスーパーに寄って買い物をすることにした。お、キャベツが特売。そういえば牛乳ももう残り少なくなってたんだっけ……。調子こいて食材をあれこれ買いこみ、結局、エコバッグふたつがぱんぱんになった。さあバス停に行こう、とエコバッグを持ちあげた瞬間、「ふぐぅっ」と腹にパンチを食らったおっさんみたいな息を漏らし、しばしその場で痛みに震える。
 五十肩のくせに、無茶だった。この荷物を持ってバスに乗り、バス停から自宅までの五分の道のりを歩くなんて、絶対無理だ。となると、残る手段はひとつ、「タクシーに乗る」以外にない。
 エコバッグを両手にぶらさげ、しかし腕が痛くて力が入らないので、五歩進んでは荷物を地面に下ろして休む、ということを繰り返しながら、なんとか駅前のタクシー乗り場にたどりつく。乗り場にはタクシーを待つひとたちが行列を作っていた。
 ちょっとずつ進む列。私は自分の足の甲にエコバッグをそれぞれ載せ、背中を丸めて取っ手を持った状態で、よちよち歩きで列の前進に合わせて移動した。ちっちゃい子どもを自分の足のうえに立たせてやり、子どもが万歳した手をつかんで、一緒に「いっち、に、いっち、に」と歩かせて遊んであげている保護者のかたを、たまに道路や公園で見かけますよね? あの状態です。エコバッグは子どもよりも身長(?)が低いので、かなり大幅に背中を丸めなきゃならず、不審きわまりない姿だけど。前傾姿勢で腕をぶらーんと下げておくと、どういう塩梅か、まだしも痛みが軽減されるのだ。
 ひたすら地面とエコバッグを見ながら、タクシーの順番を待っていたら、
「あのー、大丈夫?」
 と声がした。もしかして私に言ってくれているのか?ぎぎぎぎ、とぎこちなく首だけまわして振り返ると、すぐうしろに並んでいた、私よりもちょっと年上であろう女性が、心配そうにこちらを見ていた。
「さっきから、ずいぶんつらそうだけど、具合でも悪い?そこのカートに荷物を置いて、ちょっと休んだらどうかしら」
 タクシー乗り場のそばには、スーパーからそこまで買い物袋を運んでくるひとのために、カート置き場があるのだ。女性はわざわざ列から離れ、カートを取ってきてくれようとする。
「はわわ、大丈夫です、大丈夫です! 体調はよくてピンピンしてるんですけど、五十肩で荷物を持ってられないってだけなんです」
「あらまあ、五十肩。私もなったけど、つらいわよねえ」
 女性は親身な同情を示し、「でも、突然治る日が来るから、希望を持って」と励ましてくれた。
 私は背中を丸めたままの不審きわまりない姿勢を取りつづけるほかなかったのだが、女性は臆せず会話を続行し、とうとう順番が来て私がタクシーに乗るときには、エコバッグを座席に積みこむのを手伝ってくれた。ちなみに女性の五十肩が突然治るまで一年かかったそうで、その点ではやや絶望を感じざるを得なかったが、とにかく、なんて親切で心ばえのうつくしいひとなんだろうと胸打たれた。お礼を言い、タクシーの内と外で手を振りあって女性と別れた私は、たとえ同居人がいなくても、困っていたらこうして助けてくれるひとがいるということこそが、人類の知恵と美質の表れなんだなあと感慨にふけった。
 五十肩のせいで、振り幅少なく小刻みにしか手を振れなかったのが無念だ。  

美はあちこちに宿る

三浦しをん
小説家。1976年、東京都出身。 2000 年『格闘する者に○』でデビュー。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、 2015 年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞、2018年『ののはな通信』で島清恋愛文学賞及び河合隼雄物語賞を受賞。『風が強く吹いている』『愛なき世界』『のっけから失礼します』など著作多数。本誌連載も収録したエッセイ集『好きになってしまいました。』(大和書房)発売中。最新刊は小説『墨のゆらめき』(新潮社)。