2025.07.22 カルチャー
第5回 月夜の冒険
小林聡美さんのエッセイを毎月1回お届けしています。
我が家の猫は今年で十五才。人間でいうと七十代後半らしいが、全盛期より小柄になったとはいえ現在も7キロある。
完全なる家猫だが、外が好き。一軒家に住んでいた頃、二階のベランダのヘリにちょこんと座ってこちらを見下ろす姿に、幾度も肝を冷やした。庭の木にダイブして枝の股に挟まったこともあった。そんな武勇伝を持つ彼は、マンションに越しても、何度かベランダの手すりを伝ってお隣へ侵入。発見した時はさすがに焦るが、平静を装い、大好きなゴハンの入れ物の音を鳴らすと、ひょいと手すりを伝って戻って来る。そこを羽交い絞めにして「だめでしょうが!」と絞ると、彼にも私の動揺が伝わるのか、しばらくの間はしおらしくしているのだが…。
月のきれいな夜だった。ベランダでしばし月を愛でる。すると、お隣のベランダから猫の声がする。嫌な予感。部屋にもベランダにも猫の姿がない。憚りながらお隣に身を乗りだして見ると、猫がすました顔でこちらを見ている。慌ててゴハンの入れ物を鳴らすが戻ってこない。覗いてみると、戻りたいけれど、手すりの高さに躊躇してオロオロしている様子だった。こっちだって手でもつかめたら引っ張り上げたいが、どうやっても届かない。考えてみれば十五才。昔のような跳躍力はもうないのだ。
夜遅くに失礼かと思ったが、意を決して、お隣のインターフォンを押した。返事がなかった。私だってこんな夜に誰かきたらきっと出ない。こうなったらお隣から苦情がくるまで待つしかない。そうっと覗いてみると、正座している猫と目が合った。この期に及んで小さく「ヒャァ」と甘えた声で鳴いている。なんだよその甘え。しばらくするとインターフォンが鳴った。急いで出ると、初めて顔を合わすお隣のご主人だった。「猫ちゃんですよね。どうぞ、入ってください」と親切に言ってくださり、ならば、と
なった時、「え?戻った?戻ったそうですよ」。慌てて家のベランダを確認すると腑抜けた猫がツチノコのようにうずくまっていた。猫を家に入れ、再び玄関先に戻って、お隣に平にお詫びと御礼を言い、ドアを閉めると力が抜けた。きっとカーテンから突然覗く見知らぬ人の姿に驚いてバカ力が発揮され、跳躍できたのだろう。
七十代後半のおじいちゃんが、力を振り絞ってジャンプして戻ってきたと思えば、よくやったね!と褒め称えたいが、いい加減そんなあぶない綱渡りはこちらの肝にも、おじいちゃん猫にもよくないのだ。これを最後の冒険にして欲しい。する!

小林聡美
1965年東京生まれ。1982年に「転校生」でスクリーンデビュー。主な出演作にドラマ「団地のふたり」「ペンションメッツァ」「すいか」、映画「かもめ食堂」「紙の月」「ツユクサ」、舞台「24番地の桜の園」「阿修羅のごとく」。主な著書に『茶柱の立つところ』『わたしの、本のある日々』『聡乃学習』。